illnessを理解するためには? 現象学とPerson centered care

はじめに

・「病い(illness)」とは、「病んでいるという感覚、つまりまったく個人的で、患者本人の内面に属する体験」と定義されるが、これを理解することは医師の人生における中心的課題である。

・McWhinneyの家庭医療の原則では、「家庭医は医学の主観的側面を重視する」と述べており、それは病いや人間の理解を含んでいる。

・しかし、病いの理解は家庭医にとって重要な課題であるにもかかわらず、達成は容易ではない。というのも、病いは第一人称的な体験であり、当事者である患者にしかわからないものだからである。

・患者の病いに接近する鍵は共感(empathy)である。

・ドイツの哲学者エディット・シュタインは、共感について「他者の内面の生活と他者の身体を、自己の身体とは異なるものとして、かつ同時に似たものとして、見ること・理解することを可能にする」と述べている。

・病いを共感的に理解するには、「現象学(phenomenology)」という有用な内省的手法がある。現象学はフッサール、ハイデッガー、サルトル、メルロー=ポンティといった哲学者たちによって発展してきた。

・近年の現象学者の中では、ToombsとCarelが特に病いの現象学について精緻化している。

・ブリストル大学の哲学教授であるHavi Carelは、自著『Phenomenology of Illness(病いの現象学)』において、現象学的分析を用いて、患者が病んでいるときに何を経験するのかを探究している。彼女は現象学を、「科学によって理論化される以前の、主観的な人間の体験を調べる方法」と紹介し、また「他者に思慮深い共感を向けることを可能にするもの」と述べている。

存在論と現象学

・この考え方は、私たちにとってなじみが薄い。なぜなら、私たちは存在論の世界に深く浸っているからである。

存在論(ontology)は「在ること(being)」についての学問であり、現実には普遍的な不変項が存在すると考える思考様式である。

医学における多くのエビデンス、特に定量的なものは、存在論的な基盤の上に成り立っている。たとえば、存在論的思考をする者にとって、薬の効果は他の条件がすべて同じであれば、常に普遍的であるべきものとされる。

・一方で、存在論が「在ること(being)」の研究であるのに対し、現象学(phenomenology)は「経験(experience)」の研究である。

・現象学は、医学人類学、社会学、心理学、質的研究などとともに、病いの経験を包括的に理解するために不可欠な学問である。

illness; ふくらはぎの疼痛

・本文では以下のようなケースが紹介されている。

・私は軽度の病い――ふくらはぎの痛み――を経験した。私はCarelの著書を手引きとしてこの経験を内省し、患者の病いをより深く理解するのに役立つ意味のある洞察を得た。

・私は朝に5kmのランニングを楽しんでいる。ある日、走っている最中に左ふくらはぎに痛みを感じた。

・最初は漠然としたもので、私はそのまま走り続けた。しかし、痛みは徐々に強くなり、ついには走るのをやめざるを得なかった。

・その後、数日にわたって歩くだけでも痛みが走り、通勤が果てしなく感じられた。

・ランニングは私にとってかけがえのない喜びであったが、その痛みが私の生活と楽しみを妨げるようになり、将来的に痛みなく走ることが保証されないかもしれないと恐れた。

・この出来事から1週間後、痛みはほぼ消失した。私は慎重に、ゆっくりとしたペースでランニングを再開した。

・そのとき、左ふくらはぎに微妙な違和感を覚えた。走っている最中、その違和感に神経質になり、

・一歩進むたびに痛みの再発を予期して、深い恐れを感じた。

・私は自分の脚の能力や一体性に対する疑念を持ち続けた。

・しかし、最終的には5kmのランニングを痛みなく完走することができた。

・この達成によって、私はある程度自信を取り戻すことができた。翌日には少しペースを上げて走ったが、痛みはなかった。私は自分が元の自分に戻りつつあると感じた。

Reflective learning; ふくらはぎの疼痛

<身体的疑念(bodily doubt)>

・現象学は、私たちが無自覚に存在している身体の在り方に光を当てることができる。

・Carelは、私たちは身体に対して暗黙の確信を抱いており、それは日常生活では意識されないが、病いによってその確信が崩れたときにだけ気づかれると主張している。

・この確信の崩壊は「身体的疑念(bodily doubt)」と呼ばれる。

・身体的疑念は、身体の継続性、透明性、信頼といった通常の経験を中断させる。

・ふくらはぎの痛みが起きたとき、それまで当然のように感じていた身体の連続性が断ち切られた。私は自分の身体や身体的な活動に明示的に注意を払わざるを得なくなった。

・たとえ身体の連続性が回復しても、疑念の可能性は消えず、将来の経験に影響し続ける。

・それは私たちに「元の連続性が偶然的であり、誤り得るものである」という事実を絶えず想起させる。

がんサバイバー(cancer survivor)においても、これに類似した経験が見られるように思われる。

・がんが消失した後でさえも、疑念の可能性は消えず、患者は再発の恐怖の中で生きることになる。

<目的の追求(pursuing our purpose)>

・私は自分の身体への信頼を失った。私にとって、ランニングはかけがえのない喜びであり、日常生活の主要なモチベーションの1つである。

・Cassellは、幸福感を得るためには、人が自分の目的を追求できる程度に機能している必要があると論じている。

・さらに彼はこう述べている。「癒し手の基本的な目的は、患者が自らの目的や目標を追求・達成できるように、機能を可能にし、あるいは回復させることにある」。

・これに応える形で、多くのPerson centered careの診療モデルは、機能、生活への影響、人生の抱負や目的といった要素を探求している。

<馴染みのある世界の喪失(loss of the familiar world)>

・私は全体性の喪失、身体への疑念、通常通りに歩くことの困難さ、通勤のつらさを経験した。

・S.Kay Toombsは、病いの本質的特徴として以下の5つを挙げている。

  1. 全体性の喪失(loss of wholenss)
  2. 確実性の喪失(loss of certainty)
  3. 制御の喪失(loss of control)
  4. 行動の自由の喪失(loss of freedom to act)
  5. 馴染みのある世界の喪失(loss of the familiar world)

・私はこれらすべてを実際に経験したと気づいた。なかでも、「馴染みのある世界の喪失」は特筆すべきである。

・病いは、日常的な活動――社会的な参加を含む――の継続を妨げる。

他人と共有可能だった経験が失われることで、病者の喪失感はいっそう深まる。

・さらに、かつての「馴染みのある世界」に基づいて立てられていた計画は、「病者の新しい世界」に合わせて調整を強いられる。

・このような喪失や調整は、脳卒中のサバイバー(stroke survivor)にも見られる。彼らは、馴染みのある世界の喪失、将来計画の調整、社会参加の制限に直面する。

illness; 手首の傷害

・私が最近経験したもう一つの病いは、左手首のけがである。

・リビングの電球を替えようとして椅子によじ登り、転倒した際にこのけがを負った。

・けがの直後から左手首が痛み、腫れ始めた。私は手首のX線撮影を何度も受けたが、骨折の所見はなかった。

・そのため、私は手首に包帯も固定もせずに、日常生活を続けた。

・痛みはあったが、私は外見的には病んでいるようには見えなかったため、誰にも気にかけられなかった。

・さらに、このけがは私の日課である倒立腕立て伏せの継続を妨げた。

・私の身体は、突然そのトレーニングルーチンを実行できないものへと変わってしまった。

・私はこのけがによって自分の価値が損なわれたように感じ、もう二度と倒立腕立て伏せができないのではないかと思った。

・数週間が経過しても、激しい運動の後にはまだ手首が痛む。

・しかし、私はようやくトレーニングを再開する方法を見つけた。

・プッシュアップバーを使えば、手首にあまり痛みを感じることなく倒立腕立て伏せができる。

・私の手首は完全には治っていないが、私は日課を再開できる。

・病いはあるが、私はウェルビーイング(wellbeing:心身の良好な状態)を感じている。

Reflective learning; 手首の傷害

・病いは第一人称的な経験である

・私たちは、外から見ただけでは、ある人が病いを抱えているかどうかを理解することはできない。

・そのため、多くのPerson centered careの診療モデルが示すように、たとえ病いが外見からはわからなくても、患者が何を経験しているのかを尋ねる必要がある

・たとえ身体の連続性が断たれたとしても、私たちはさまざまな調整を通じて目標を追求し続けることができる。

・それにより、私たちはウェルビーイングを再構築することが可能である。ときには、私のケースのように、こうした過程は内省を伴わず、受動的に進むこともある。

・しかし、病いは別の在り方への変化と捉えることもできる。

・病者にとって、未来は不確実性に満ちている。この不確実性に対する恐れを乗り越えるためには、時間を当然のものとしてではなく、大切なものとして再評価する必要がある。

・McWhinneyは、転移性骨肉腫を長期間生存しているある患者の言葉を引用している――「現在という瞬間への希望とは、マインドフルネス(気づき)の実践を通して、この瞬間を生きる能力のことである」

・このような哲学的な省察は、緩和ケアを受けている患者のなかにも起こり得る。私は、私がケアした数人の患者が、同様のスピリチュアルな気づきを経験していたことを思い出す。

Conclusion; 家庭医療における現象学

・私の身体的不調は一時的かつ軽度なものであったが、その経験と省察は、患者が抱える持続的かつ深い病いを理解するための土台を私に与えてくれた。

・ちょうど、臨床推論や疾患についての知識がなければ診断ができないように、Person centered careとillnessの一般的側面についての理解がなければ、各患者の病いを理解することはできない。

・病いはまったく個人的な体験であるが、現象学は病いにまつわる人間的体験の共通の側面を理解する助けとなる。

・Carelはこう述べている――「抽象化の目的は、その世界を理解し、それによって新たな感受性をもってその世界へ戻ることである」。

・したがって、病いの一般的側面を理解することは、患者への共感という私たちの創造的な能力を育むことができる。

・それは、家庭医療における最も治療的な要素である患者―臨床医関係を、さらに深めることができる。

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<参考文献>

・Kato K. How can we understand illness? Phenomenology and the pillar of person-centred care. Br J Gen Pract. 2022 Mar 31;72(717):178-179. doi: 10.3399/bjgp22X719177. PMID: 35361596; PMCID: PMC8966931.

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